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ジュニアテニスの指導者が「ドケチ生活」を貫いたわけ

 30年着続けた白ジャージーは、くたくただった。バッグも40年使い倒した。質素な生活ぶりもあって、周囲には「ドケチ」と思われていた。  1949年、千葉県佐倉市生まれ。地元の市立志津中、県立佐倉高校を経て、千葉工業大に進学した。大学で硬式テニスと出会い、習志野市のテニスコートに通った。  学費を稼ぐための新聞配達では、体力をつけようと自転車は使わず、走って一軒ずつ回った。大学時代、テニスで目立った成績は残せなかったらしいが、感覚よりも理論にこだわったテニスへの姿勢と熱意は周囲に知られた。  76年、加藤さんが20代後半だったころ。ジュニアコースができたばかりの佐倉市の志津テニスクラブの前原克彦さん(74)が加藤さんをコーチに誘ったのも、そんな姿勢からだった。  夕方の練習は毎日、午前6時半からの朝練習は週2、3回、長年ボランティアで指導した。ウィンブルドン8強の松岡修造さんを輩出した東京のクラブにも通い、指導法を学んだ。  前原さんは「(ラリーを)100本打って、101本目でとれればいいというスタイルだった」と振り返る。子どもたちには、堅実さと粘り強さを求めた。  指導法はスパルタの正反対。87年から同クラブのコーチを務める木本知さん(61)=佐倉市=は「声を荒らげたことはなく、いつも諭すように語りかけていた」と話す。  県テニス協会理事長の佐藤篤也さん(62)=我孫子市=は、「理路整然と話すから、聞いている方はぐうの音も出ない」。試合会場で、他クラブの選手に惜しみなく助言もしていた。  志津テニスクラブで指導を始めて数年後には、教え子が全日本ジュニアで準優勝。これまでに同クラブからは6人のプロ選手を輩出した。2001年に県テニス協会のジュニア委員長に就任すると、教え子はさらに県内全域に広がった。関わった選手は約500人。教え子たちの近況は、くまなく把握していた。  昨年の年代別世界大会を制した中村健太さん(18)=習志野市=もその一人だ。小学2年で同クラブに加入。中学3年時には加藤さんから週3、4回、約2時間の個人レッスンを受けた。  「健太との練習は楽しい。お金とか時間とか関係なく、できる限り続けたい」。そう声をかけてくれたことが忘れられない。加藤さんは球出し役で、フォームの確認をした。「うまくいかないときに帰ってくる場所だった」と中村さんは言う。  加藤さんの本業は、市川市役所の職員だった。大気汚染など環境問題に明るく、10年に環境清掃部理事として退職した。私生活では投資で一財産を築いた一方、昼を庁内の食堂で済ませるなど、質素な生活は不思議がられることもあった。  昨年12月、ステージ4の膵臓(すいぞう)がんと診断された。生涯独身で、財産整理を始めた時、テニス仲間に「もう長くない。自分の遺産を育成に使ってほしい」と打ち明けた。  今年3月22日、入院先の病院から木本さんに電話をかけた。「基金を立ち上げて、ジュニアに使ってください」。それが、友人たちに残した最後の言葉だった。4日後、息を引き取った。  遺産は県テニス協会の「加藤ファンド」として運用されることが決まった。全国で活躍する県のジュニア選手に1人数十万円の支援をする。ジュニアのトップ選手は海外遠征も多い。少しでも、その負担を減らしたいという加藤さんの遺志だ。  木本さんは言う。「節約はこのための作業だったんだと。育成に捧げた人生だった」(鳥尾祐太)

<引用元>http://www.asahi.com/articles/ASQDN7J9RQDFUDCB012.html